「定年後は毎日が日曜日」なんて言いますが、実際は毎日が手持ち無沙汰で、何をしていいか分からない…そんな風に感じていませんか?
かつて組織の歯車として奔走した私たちには、静寂と自由が必要です。
もしあなたがバイク乗りなら、あるいはかつてライダーだったなら、今こそ「平日のいろは坂」へ向かうべきです。週末の殺人的な渋滞とは無縁の、ガラ空きのワインディングロード。眼下に広がる絶景と、老舗ホテルでの極上ランチ。それは、長年勤め上げた者だけに許された、極上の「特権」です。
元公務員の私が実体験をもとに、大人の余裕で楽しむ日光ツーリングの全貌をご紹介します。エンジンの鼓動と共に、人生の主導権を取り戻す旅へ出かけましょう。
週末の「地獄」を知っているからこそ感じる、平日の「天国」
バイク乗りにとって、いろは坂は聖地であると同時に、週末には近寄りたくない「鬼門」でもあります。紅葉シーズンはもちろん、通常の土日であっても、日光宇都宮道路の出口から渋滞が始まり、坂の途中では観光バスの後ろについて排気ガスを浴びながらノロノロ運転を強いられる。これでは、何のためにバイクに乗っているのか分かりません。

しかし、平日の午前中は別世界です。
火曜日の朝9時。世間の現役世代が始業のチャイムを聞き、パソコンに向かってメールチェックを始めている頃、私は清滝インターチェンジを降りて、クリアな空気を胸いっぱいに吸い込んでいます。視界に入るのは、雄大な男体山と、前走車のいない開けた道路だけ。
「みんな、今日も仕事ご苦労さん」
ヘルメットの中で、思わずそんな独り言が漏れてしまいます。これは性格が悪いのではありません。長年、組織のために滅私奉公してきた自分への、ささやかなご褒美としての優越感です。この「背徳感」にも似た喜びこそが、定年後ツーリングの隠し味なのです。
第二いろは坂:2車線の一方通行が生む「心の余裕」
いろは坂には、下り専用の「第一いろは坂」と、上り専用の「第二いろは坂」があります。私たちがまず挑むのは、中禅寺湖へと向かう「第二いろは坂」です。
ここは、全20のカーブ(「い」から「ね」まで)が続く登り坂ですが、特筆すべきは「全線2車線」の一方通行であるという点です。これが、バイク乗りにとって絶大な安心感と快感をもたらします。
遅い車をパスできる自由
山道ツーリングで最大のストレスは、前を走る遅い車や大型バスを追い越せないことです。対向車線がある道路では、無理な追い越しは事故の元であり、厳に慎まなければなりません。しかし、第二いろは坂は2車線とも同じ方向に進む一方通行です。
左車線をゆっくり登る観光バスや軽自動車を、右車線から安全に、そしてスマートにパスすることができます。自分のペースを乱されることなく、エンジンの回転数を美味しいところに保ちながら、コーナーを一つひとつクリアしていく快感。これは、他の峠道ではなかなか味わえない、いろは坂ならではの醍醐味です。
48カーブが教えてくれるライディングの真髄
「い」「ろ」「は」…と名付けられたカーブの看板を横目に見ながら、バイクをリーン(傾ける)させていく。定年後のリターンライダーにとって、無理なスピードは禁物ですが、リズムよく車体を左右に倒し込む操作は、全身の血流を良くし、脳を活性化させます。
アクセルを開け、リアタイヤが路面を蹴る感覚をお尻で感じる。公務員時代、デスクワークで凝り固まっていた腰や背中の筋肉が、バイクとの対話によって解きほぐされていくようです。ただの移動手段ではなく、スポーツとしてのライディングを楽しむには、やはり前後に他車がいない平日の環境が不可欠なのです。
明智平で一休み:ロープウェイから見下ろす絶景
第二いろは坂を登り切る少し手前に、「明智平」という絶好の休憩スポットがあります。週末なら駐車場に入るだけで一苦労ですが、平日ならスムーズにバイクを停めることができます。
ここではぜひ、ロープウェイに乗ってみてください。わずか数分の空中散歩で到着する展望台からは、これから向かう中禅寺湖と、そこから流れ落ちる華厳の滝、そして男体山を一望する大パノラマが広がっています。
展望台の手すりに寄りかかり、眼下に広がる景色を眺めながら缶コーヒーを飲む。周りを見渡せば、聞こえてくるのは風の音と、遠くの鳥のさえずりだけ。
「あの日、再雇用の辞令を断ってよかった」
そう心から思える瞬間です。組織に残っていたら、今頃は薄暗い会議室で、若手職員の作成した資料のてにをはを直していたかもしれません。しかし今、私は北関東の空の下、誰にも束縛されずにここにいます。この圧倒的な自由の実感は、何物にも代えがたい資産です。
中禅寺湖畔で味わう「大人の極上ランチ」
明智平を出てトンネルを抜けると、標高1269メートルに位置する天空の湖、中禅寺湖に到着します。湖畔の道路を流すと、水面が太陽の光を反射してキラキラと輝き、まるで海外のリゾート地に来たかのような錯覚を覚えます。
さて、楽しみなランチの時間です。バイク乗り御用達のガッツリ系定食屋も良いですが、せっかくの「贅沢ツーリング」です。ここは少し背筋を伸ばして、歴史あるホテルでのランチはいかがでしょうか。
伝統の味「百年ライスカレー」
おすすめは、中禅寺金谷ホテルのダイニングルーム「みずなら」です。ここでは、金谷ホテル伝統の「百年ライスカレー」をいただくことができます。
森の中に佇むログハウス風の建物は、落ち着いた大人の雰囲気が漂い、ライディングジャケットで入るのを少しためらうかもしれません。しかし、スタッフの方々は温かく迎えてくれます(もちろん、泥だらけのオフロードブーツなどは避けるべきですが、常識的なツーリングウェアなら問題ありません)。
濃厚で甘みのあるルーと、口の中でほろりと崩れる牛肉。窓の外には美しい木立と湖面。この空間と時間を味わうことこそ、現役時代にはできなかった贅沢です。
平日のレストランは静寂に包まれています。隣の席の会話に邪魔されることもなく、一口一口を丁寧に味わう。食後のコーヒーを飲みながら、午後のルートを地図で確認する時間は、至福のひとときと言えるでしょう。
第一いろは坂:テクニカルな下りで「操る楽しさ」を再確認
優雅なランチを終え、湖畔で少し散策を楽しんだら、帰路につきます。帰りは「第一いろは坂」を下ることになります。
第一いろは坂は、第二とは異なり、少し道幅が狭く、より急なカーブが続くテクニカルなコースです。28のカーブ(「な」から「ん」まで)があり、ブレーキとギア操作の確実性が求められます。
エンジンブレーキを味方につける
下り坂では、フットブレーキやハンドブレーキだけに頼ると、フェード現象(ブレーキが効かなくなること)のリスクがあります。ここで重要になるのが、適切なギア選択によるエンジンブレーキの活用です。
コーナーの手前でしっかりと減速し、ギアを落とし、エンジンブレーキを効かせながら旋回する。この一連の動作がピタリと決まった時、バイクと自分が一体になったような感覚を味わえます。
「まだ俺の腕も捨てたもんじゃないな」
ヘルメットの中でニヤリと笑う。誰に自慢するわけでもありませんが、自分の身体能力と判断力が正常に機能していることを確認できるのは、私たち世代にとって大きな自信になります。
もし後ろから速い車が来ても、焦る必要はありません。平日なら交通量は知れています。譲れる場所でウインカーを出して先に行かせ、自分のペースを守れば良いのです。他人に合わせる必要などありません。ここは公道であり、サーキットではないのですから。
季節を選ぶ知恵:真の「平日特権」は紅葉シーズンを外すこと
いろは坂といえば紅葉が有名ですが、元公務員としてのアドバイスを一つ。
「紅葉のピーク時は、平日であっても近寄るべからず」
これだけは鉄則です。10月中旬から11月上旬にかけては、平日であっても観光バスやマイカーで大渋滞が発生します。いろは坂を登るだけで2時間、3時間かかることも珍しくありません。これでは、せっかくのツーリングが台無しです。
私たちが狙うべきは、新緑が美しい5月から6月、あるいは紅葉が終わって冬季閉鎖になる直前の晩秋(11月下旬)、そして避暑としての真夏です。
特に新緑の季節のいろは坂は、生命力に溢れています。トンネルのような緑の中を走り抜ける爽快感は、紅葉以上の価値があると私は思っています。そして何より、道路が空いています。
「みんなが殺到する時期をあえて外し、一番美味しい環境を独占する」
これこそが、時間持ちである定年退職者の特権的な戦略です。人混みの中で揉まれるのは、もう現役世代に任せておけば良いのです。
準備編:50代・60代が安全に楽しむための装備
最後に、安全に楽しむための装備について少し触れておきます。体力や反射神経の衰えは、経験と装備でカバーするのが大人の知恵です。
プロテクター入りウェアは必須
「ちょっとそこまで」という軽装は厳禁です。万が一の転倒に備え、胸部、背中、肘、膝にプロテクターが入ったジャケットとパンツを着用しましょう。最近のウェアはデザインも洗練されており、街歩きでも違和感のないものが増えています。
インカムで音楽やナビ音声を
ソロツーリングといっても、完全な無音は時に集中力を欠く原因になります。ヘルメットにインカムを装着し、スマートフォンと接続して、お気に入りの音楽をBGMとして流したり、ナビの音声案内を聞いたりすることで、余裕を持って運転できます。
グリップヒーターと電熱ウェア
日光周辺は標高が高く、下界よりも気温が5度から10度低くなります。春先や秋口でも、走行風を受けると身体が冷え切ってしまいます。手がかじかむとブレーキ操作に支障が出ますので、グリップヒーターや電熱グローブ、電熱ベストなどの文明の利器を積極的に導入しましょう。寒さを我慢するのは美徳ではありません。快適さをお金で買うのも、大人の余裕です。
まとめ:人生のハンドルは、まだあなたが握っている
夕方、心地よい疲労感と共に帰宅し、愛車のエンジンを切る。「カチン、カチン」と冷えていくエンジンの音を聞きながら、今日一日の絶景を反芻する。その時、心の中には深い満足感と、明日への活力が満ちているはずです。
定年退職は「終わりの始まり」ではありません。組織に縛られず、自分の好きな時に、好きな場所へ行ける「黄金時代」の幕開けです。
平日のいろは坂は、そんな私たちを歓迎してくれます。誰にも邪魔されず、自分のペースで人生というワインディングロードを走り抜ける。そんな贅沢な時間を、ぜひあなたも味わってみてください。
もし、まだ迷っているなら、まずは有給休暇のつもりで、来週の火曜日にでも出かけてみてはいかがでしょうか。ガレージの奥で眠っている愛車が、あなたとの冒険を待っていますよ。


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