定年退職の辞令を受け取り、庁舎を出た瞬間のあの感覚を、私は一生忘れないでしょう。
長年背負ってきた責任という名の重いコートを脱ぎ捨て、春風の中に放り出されたような、心細さと解放感が入り混じった不思議な高揚感。
「明日からは、誰のためでもなく、自分のために生きていい」
そう自分に言い聞かせた時、ふと脳裏に浮かんだのは、若い頃に地図帳を指でなぞりながら夢見た「日本一周」の文字でした。
退職金という、人生のご褒美を少しだけ使わせてもらって、相棒となるバイクを手に入れる。 これは単なる買い物ではありません。組織の歯車から卒業し、自分の人生のハンドルを握り直すための、大切な儀式です。
しかし、50代後半となった今の私たちには、体力や反射神経の低下という現実があります。 若い頃のような勢いだけで選べば、納車一週間で後悔することになりかねません。
この記事では、元公務員であり、現在は自由な旅人として生きる私が、退職後の日本一周を見据えた「大人のバイク選び」について、実体験とデータを交えて解説します。
見栄やスペック競争から降りた先にある、等身大の相棒選び。 それは、あなたのセカンドライフを豊かに彩る、最初で最高の決断になるはずです。
退職記念に買うなら「見栄」より「実用」。失敗しない3つの条件
退職記念となると、つい「一生モノだから」と、ハーレーダビッドソンやBMWの大型アドベンチャーのような、所有欲を満たす高級車に目が行きがちです。 もちろん、それに乗ること自体が夢であれば止める理由はありません。
しかし、「日本一周」という過酷な長旅を完遂することを目的とするなら、視点を変える必要があります。 私が考える、シニアライダーが旅の相棒に求めるべき3つの絶対条件。それは以下の通りです。
- 取り回しの軽さ
- 航続距離
- 積載性

条件1:取り回しの軽さ
まず、最も重要なのが「取り回しの軽さ」です。 旅先では、砂利の駐車場、傾斜のある路肩、狭い路地でのUターンなど、教習所のような整地された環境ばかりではありません。
荷物を満載した状態で、ふらついた時に足で支えられるか。 万が一倒してしまった時に、一人で引き起こせるか。
この安心感の有無が、旅の楽しさを大きく左右します。「昔はナナハンを乗り回していた」というプライドは、旅の邪魔にしかなりません。
条件2:航続距離
次に「航続距離」です。 北海道や地方の山間部を走ると、ガソリンスタンドが数十キロ先までないことは日常茶飯事です。
タンク容量と燃費のバランスが良く、一度の給油で300km以上走れるバイクであれば、ガス欠の恐怖に怯えることなく、心に余裕を持って絶景を楽しめます。
条件3:積載性
最後に「積載性」です。 一週間以上の長旅となれば、着替えや雨具、キャンプ道具など、荷物は膨大な量になります。
無理やりロープで縛り付けるのではなく、パニアケースや大型のリアキャリアが装着でき、荷物を積んでも走行バランスが崩れにくい設計のバイクを選ぶべきです。
これらを踏まえた上で、私が自信を持っておすすめする「日本一周の相棒候補」をカテゴリー別に紹介します。
日本一周の相棒候補①:冒険の王道「250ccアドベンチャー」
現在、日本一周を目指す旅人たちの間で最も熱い視線が注がれているのが、250ccクラスのアドベンチャーモデルです。 かつては「中途半端」と言われたこのクラスですが、技術の進歩により、リッターバイク顔負けの旅性能を手に入れました。
特におすすめしたいのが、スズキの「V-Strom 250SX」です。
このバイクの最大の魅力は、油冷単気筒エンジンによる圧倒的な燃費性能と、軽量な車体です。 実燃費でリッター35km以上走ることも珍しくなく、12リットルのタンクで400km以上の航続距離を叩き出します。 これは、東京から名古屋まで無給油で走り切れる計算です。

車重も装備重量で164kgと非常に軽く、身長170cm程度の一般的な日本人男性であれば、不安なく扱えるサイズ感です。 それでいて、防風効果の高いスクリーンや、未舗装路も走れる19インチのフロントホイールを備えており、まさに「日本の道を旅するために生まれた」ような一台です。
高速道路を使って一気に距離を稼ぎたい時も、100km/h巡航をこなせるポテンシャルを持っています。 大型バイクのような圧倒的な加速はありませんが、定年後の旅にスピードは不要です。 景色を楽しみながら、トコトコとどこまでも走り続けられる。V-Strom 250SXは、そんな等身大の冒険を支えてくれる、頼れる相棒となるでしょう。
日本一周の相棒候補②:下道旅のロマン「ハンターカブ」
もしあなたが、「高速道路は使わず、日本の隅々まで見て回りたい」と考えているなら、選択肢は125ccクラス一択になります。 その中でも、ホンダの「CT125 ハンターカブ」は、現代における旅バイクの傑作です。

スーパーカブの耐久性と経済性はそのままに、オフロード走行もこなせるタフな足回りと、巨大なリアキャリアを装備しています。 このリアキャリアの積載能力は凄まじく、大型のホームセンター箱(ホムセン箱)を積んでもびくともしません。
ハンターカブで旅をする最大のメリットは、「寄り道のしやすさ」です。 気になった路地裏、地元の小さな食堂、海沿いの細い道。 大型バイクでは躊躇してしまうような場所でも、自転車感覚で気軽に入っていけます。
これこそが、旅の解像度を高め、ガイドブックには載っていない出会いを生んでくれます。 もちろん、高速道路には乗れませんし、1日の移動距離は200km程度が限界かもしれません。

しかし、定年後の私たちには「時間」という最大の資産があります。先を急ぐ必要はありません。 燃費はリッター60kmを超え、維持費も原付二種クラスなので格安。 年金生活の家計にも優しく、まさに「稼いで遊ぶ」ための賢い選択と言えるでしょう。
日本一周の相棒候補③:楽して遠くへ「DCT搭載ミドルツアラー」
「体力には自信がないけれど、快適に長距離を移動したい」 「クラッチ操作で左手が痛くなるのが嫌だ」
そんな贅沢な悩みを持つ方には、ホンダの「NC750X(DCTモデル)」が最適解です。
このバイクの最大の特徴は、「DCT(デュアル・クラッチ・トランスミッション)」という機構です。 簡単に言えば、オートマチック車のようにクラッチ操作とシフトチェンジが不要です。 アクセルを捻るだけで、コンピューターが最適なギアを選んで変速してくれます。 これにより、渋滞路や長距離走行での疲労が劇的に軽減されます。

また、通常のバイクではガソリンタンクがある位置が、丸ごとラゲッジスペース(収納ボックス)になっています。 ヘルメットがすっぽり入るほどの容量があり、旅先で買ったお土産や雨具を放り込んでおくのに大変便利です。
重心が低く設計されているため、750ccという排気量を感じさせない安定感があり、立ちゴケのリスクも低減されています。 大型バイクの余裕と、スクーターの快適性を併せ持つこのバイクは、まさに「あがりのバイク」として、多くのベテランライダーに選ばれています。
退職金で少し奮発して、最新技術の恩恵を受けながら優雅に日本を巡る。 そんな大人の余裕を感じさせる選択です。
3車種の比較まとめ
| 車種名 | 排気量 | 特徴 | こんな人におすすめ |
|---|---|---|---|
| V-Strom 250SX | 250cc | 軽量・高燃費・高速可 | 費用と快適性のバランス重視派 |
| ハンターカブ | 125cc | 頑丈・寄り道最強 | 下道で日本を深掘りしたい派 |
| NC750X (DCT) | 750cc | オートマ操作・収納付 | 疲れ知らずで優雅に旅したい派 |
元公務員の金銭感覚:退職金で買うべきは「車両」か「装備」か
ここで、元会計実務担当としての視点から、予算配分についてアドバイスさせてください。 退職金が入ると気が大きくなり、車両本体に予算の全てを注ぎ込んでしまう方がいます。 しかし、これは非常に危険な資金計画です。
安全で快適な旅をするためには、車両以外にも多くの費用がかかります。 特にリターンライダーの方に強くお伝えしたいのは、「昔のヘルメットやウェアは使わないでください」ということです。
経年劣化したヘルメットは防御力が低下していますし、昔のウェアにはプロテクターが入っていないことも多いです。 予算の少なくとも2割から3割は、自身の体を守る「装備」に充てるべきです。
具体的には、以下の装備への投資を惜しまないでください。
- 最新の安全基準を満たしたヘルメット
- 胸部プロテクター入りのジャケット
- ライディングシューズ
- ドライブレコーダー
これらは決して安い買い物ではありませんが、万が一の事故の際に、生死を分ける投資となります。 「車両は中古で安く抑えてでも、装備は最新の新品を揃える」。これが、賢明な大人の判断です。
また、旅の資金(ガソリン代、宿泊費、食費)も残しておく必要があります。 立派なバイクを買ったけれど、金欠でどこにも行けないとなっては本末転倒です。 車両価格だけでなく、乗り出し後のランニングコストまで計算に入れた上で、無理のない車種選びを心がけてください。
納車までに準備すべき「体」と「装備」
欲しいバイクが決まり、契約を済ませたら、納車までの期間はただ待つだけではありません。 リターンライダーにとって、この期間は「体作り」のための重要な準備期間です。
数十年前と比べて、視力、筋力、反射神経は確実に衰えています。 特に足腰の筋力低下は、立ちゴケの直接的な原因となります。
納車までの間、スクワットやウォーキングで下半身を鍛え直し、ストレッチで股関節の柔軟性を高めておきましょう。 これだけで、またがった時の安心感がまるで違います。
また、任意保険への加入も忘れずに。 対人・対物無制限は当然として、自分自身の怪我を補償する人身傷害特約や、ロードサービスの内容もしっかり確認してください。
公務員時代、リスク管理は仕事の基本だったはずです。 遊びであっても、最悪の事態を想定して備える姿勢は変わりません。
まとめ:まだ見ぬ景色へ走り出そう
退職記念のバイク選び。 それは、これからの人生をどう楽しむかという、生き方の選択そのものです。
V-Stromで風に吹かれながら大陸的な旅をするのもいい。 ハンターカブで路地裏の日本を発見するのもいい。 NC750Xで快適に温泉地を巡るのもいい。

どのバイクを選んだとしても、間違いなく言えることが一つあります。 それは、ヘルメットの中で見る景色は、庁舎の窓から見ていた景色よりも、はるかに鮮やかで、広いということです。
納車の日、新しい相棒のキーを受け取った時、あなたの「毎日が日曜日」ではなく「毎日が冒険」の日々が始まります。
さあ、準備はいいですか。 エンジンの鼓動と共に、まだ見ぬ日本の絶景へ、走り出しましょう。


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